古い日記はここ

2002/05/15
Sキューブのイベントが中止になった。
ま、理由はいろいろとあるだろうが、各組織、各個人が自分の我を通そうとした結果であることは確かである。
自分の我、とは別に悪いことはない。それぞれの信念で、それぞれの考え方で行動しているのだから。
だが、その視点の中に、「訪れる観客の立場にたって」とか、「利府の住民の立場にたって」とか、そういう視点は十分に入っていただろうか。
それが最も重要な問題である。

何はともあれ、再来週には、ワールドカップは始まる。
あっという間の2年だった。
キリンカップの悪夢から今に至って、何が変わったのか、と問われると、本質的には何も変わっていない、と答えるしかない。
変わったのは、真新しい道路と、無言で我々を拒絶する宮城スタジアム周りの塀だけである。

スタジアムは、以前にもまして、塀の向こう側に行ってしまった。

2002/03/15
最近はワールドカップについてはアホらしくて書く気にもなかったというのは、嘘だが、半分当たっている。
チケットが手に入らないから、というのではない。チケットがたとえ手に入っても、「おめぇは、貰ったんだろ」とか「ずるっこして、手に入れたんだろ」と言われそうだ。ま、そう言われたって手に入れたいのはやまやまだ。
それよりもむしろ、ワールドカップ期間中、どう利府が盛り上がるのか、それが気がかりだ。
通過するだけの町、利府町。
そんな状況を許しているのはおかしい。住民は気づき始めたが、やや遅きに失している。
多くの住民はこう考えているはずだ。
  • フーリガンは利府には入るな。野宿者はおいらの庭から出ていって欲しい
  • ワールドカップを楽しみたいからイベントをやってくれ
誰も利府から野宿者やサポーターに出て行け、とは言っていないのだ。利府町の中で、日常と非日常をきちんと分けて欲しい、それだけの願望なのだ。
つまり、日常生活を守る部分と、お祭りを楽しむ部分を分けて欲しい、と言っているだけなのだ。
それがわかっていない。
そして、ワールドカップという災害がやってくる。
このままでは、災いはそのまま災いとなってしまうだろう。
転じて福となす、という仕掛けはどうしたらいいのか。
今、住民にこそ、それは委ねられている。
立ち上がれ、利府住民!

2002/01/23
1/20に、利府町ワールドカップサッカー対策室主催のイベントが華々しく開催された。
ベガルタ清水監督講演会、ノリオら2人によるサイン会、宮城スタジアムにくる国のお国自慢と料理自慢、パネル展、シュートチャレンジなど。
なかなか豊富で新規性のあるイベントで、500人以上の人が訪れ、大成功だった。
さて、その後、ワールドカップサッカー対策協議会と、宮城県W杯推進局、利府町との三者協議があって、宮城県は驚くような発表をした。
  • 野営場の設置はしない
  • クローズドサーキットは仙台市体育館だけ
  • ほとんどの観客は仙台駅で振り分け、チケットを持たない人は利府に向かわせない
  • フーリガンなどで損害を受けても県は知らない
まあ、あきれかえる内容だ。
これほど、住民と行政の感覚が離れているとは思わなんだ。
だいたい、警備計画も策定が遅すぎるし、1/4の河北で消防などと全く打ち合わせていないことをすっぱぬかれている、その上での、この阿呆な発表である。
2000/6のキリンカップを思い起こしてしまった。
悪夢、再び。いや、それ以上の悪夢がやってくるような気がする。
宮城県警の警部が言った、「県民はホスピタリティを発揮して欲しい」という発言が、空々しい。
しょせん、そんな行政なのである。

2001/12/23
ずいぶん長いこと書いてなかった。
11〜12月は、キックラブの行事がたくさんあって、大変だった。
12/1。仙台国分町のホテル国分町2階「WorldSoccerCafe SENDAI」での、ファイナルドローイベントに参加していた。
次々と決まるたびに歓声があがった。
宮城には、メキシコ、エクアドル、スウェーデン、アルゼンチンが来ることが決まった。
いよいよである。
ところが、私はチケットがどうにも取れない。
ま、いいか、と半ばあきらめ、半ば、これでよい、という気がしてくる。
実際、試合当日は、スタジアム周りが気になって、観戦どころではないような気もするからだ。
あと150日余り。
いずれにしても、「ワールドカップ」いや、「世界がやってくる」

2001/10/20
国体が終わった。
開会式には4万人もの人がつめかけた。
が、招待席と思われるメインスタンドにはかなりの空きが見られた。
うちの子供たちはメインスタンド2階に他の小学校の子供たちと一緒に開会式を楽しんだ。
ケヤッキーからサン・ファン・バウティスタ号が登場する。
興奮気味に4歳の子が話す。
虹色で彩られた会場は、子供たちに向けた、未来のメッセージだ。
開会式の演技は見ていて楽しいものであり、凝っていて非常に良かった。
この時、この場所で、50年に一度の国体を見る、というのは、感慨深い。
あっという間に国体は終わった。
来年のワールドカップもかくのごとし、であろう。
さて、何が残ったのか。
それが問題である。
障害者スポーツ大会があと1週間で始まる。
こちらの大会にこそ、後に残るものがあるような気がしてならない。
障害者の汗と笑顔は、何となくうれしい。
いわゆる五体満足と思っているだけの自分ではない自分をそこに発見するからだろうか。
だから、スポーツをしてみたい、と思う熱意に変わるのかもしれない。
ともあれ、国体・障害者スポーツ大会で、多くの人が宮城スタジアムに来る意義は大きい。
自分の感覚で、スタジアムを、味わって欲しい。
スタジアムに来るほとんどの人は、宮城の人である。
その宮城の人が、国体を、障害者スポーツ大会を、そして、宮城スタジアムを検証するのである。

2001/09/30
ずいぶん、空いてしまった。
「スタジアムをぶっこわす、とは何事か」という批判が結構きた。
ずいぶんセンセーショナルなタイトルで必ずしも真意は伝わっていなかったようだが、まあ反応がないと思っていたら、結構あったので、正直うれしかった。
あるベガルタファンに「宮城スタジアムなんて眼中にない!」と言われ、ずいぶんガックリきた。
いやその通りなのだ。
実は、私は宮城スタジアムが好きである。
嘘だろ? と言われそうだが、あのデザインが結構好きで、ある場所から眺めると、とてもうれしい気分になるのだ。
だからこそ、誰も使わないで放っておかれる状態が嫌なのかもしれない。
満員の観客の記憶とともに、何もかもなくなった方が幸せなのかもしれない、と思ったりもする。
先日、札幌に行って来た。
飛行機に乗った。
行きは左側、帰りは右側の窓際、最前列だ。
宮城スタジアムがよく見えた。
赤いトラック。緑の芝。それに、白と灰色が、空からくっきりと見えた。
あれが壊される、というのは、何とも寂しい気分になる。
が、ものは使ってこそ、ものなのだ。
記念碑でも何でもないものを、ただ、そこに置いておくのは、今を生きている我々の責任である。
将来を見据えた議論が、本当に必要だと、私は思う。

2001/08/24
まさに台風一過の朝となった。
非常に蒸し暑いところが台風の余韻を感じさせる。
そうたいした風ではなかったが、グランディ21内の木々でやや斜に構えているものが増えたような気がした。
次の日曜日は、新幹線車両基地まつりであり、多くの人が利府を訪れることであろう。できれば電車で新利府駅から来て欲しい。
車両基地からは宮城スタジアムの銀翼がよく見える。ここでの試合数が倍あったら、恐らく車両基地を臨時駅にして乗客を運ぶことを考えただろうな、と思う。
たった3試合なのだ。
そのために多額の費用は使えないし、使うとしたら税金であろう。
さて、その車両基地まつりにどのくらいの人が電車を使って来るのだろうか。
JRは新利府駅で来る先着5000人にうちわを配る。
これは毎年の恒例行事であり、できるだけ多くの人が電車で来て欲しいことを願ってのことだ。
利府に住む者なら先刻ご承知だが、車両基地まつり当日は、利府街道はもちろん、多くの道が混雑する。
ある意味、大迷惑なイベントなのであるが、総じて歓迎されている。
男なら一度は列車の一番前で走り去る線路を眺めた経験があるだろう。車両基地まつりは、そんな少年時代の純粋な興味をそそる、イベントなのだ。
ワールドカップはどうだろう。
多くの国の少年にとって、サッカーの一大舞台にたつことは、大きな夢に違いない。車両基地まつりの、わくわくするようなもの以上のものが、来年宮城スタジアムにやってくることは間違いない。

2001/08/22
2002FIFAワールドカップTM勉強会 in RIFU が終わった。
200人分の座席を用意したが、50で足りた。
まあ、わざわざワールドカップについて勉強に来ることもないのかな、とは思った。
利府町役場の人は、国体があるから、と言う。果たして、国体で盛り上がっているのか、本当に?
そうでもない。
宮城スタジアムで行われることが、すなわち、利府町で行われることなのだ、と考える人が実に少ない。理由は簡単である。自分には関係がないからだ。
本当に関係はないのか。
いや、関係を積極的に作りたい人はいないのか。
ここいやへんが、実に、重要で、困った問題である。
人が集まらない問題以前に、地元の意識が、宮城スタジアムから剥離しているのだ。
ワールドカップ後を考えると、悲しむべき状況である。
問題意識を持たせる、非常に簡単な方法に、危機意識がある。
積極的に、フーリガンが来るかもしれない!
などと宣伝に売ってでるか。
危機に面したとき、人は集合する。災害など、みんなそうなのだ。
さて、次の一手を考えておかねばならぬ。
いずれにせよ、菅谷台の住民すら、来なかった現状は、絶望的ではある。
とりあえず、菅谷台で、再びワールドカップ勉強会を開く準備をしようかな、と、ふと思った。
継続こそ必要なのである。

2001/08/17
何のためにこのホームページを作成しているのか、というシンプルな質問が最近とみに多くなった。
そうかな、と思ってコンテンツなどをながめると、ちょっと変わっているかな、とも思うようになった。いや、変わっているのは、本人自身だから、それが作るweb pageなので変わっているのも当然といえば当然なのだ。
目的がわからん、という指摘もあったが、このweb pageを見て、目的がわからないのなら、わからない方の理解が足りないのだ、と自己中心的に思ったが、やっぱり、目的を明確にしておいた方がいいらしい。
ずばり、「ワールドカップ後の宮城スタジアム活用」につきる。
ワールドカップを地元住民みんなで楽しくわいわいやりつつ、訪れる人には非日常を楽しんでもらう。そうすれば、自ずから、宮城スタジアムは住民に近くなるだろう。
昨日、ある取材に応じたが、その中で、以前から思っていたことをうち明けた。
再来年、日本を舞台に障害者サッカーの国際大会があるらしい。今年、第1回障害者スポーツ大会を実施する宮城県こそ、その会場にふさわしいと思っていたら、どうも会場は東京、横浜近郊になるらしい。
残念よりも、阿呆である。
誰がって? 無論、宮城県だ。
ワールドカップに向けて多くの新しいサッカー場やら複合競技場やらができた。
狭い日本にそうやたらに作ってどうする気なのだ。
しかも5万人規模のスタジアムがいっぱいできてしまった。
阿呆である。
5万人規模のゲームなんて、サッカーだってそんなにないわ。陸上など他の競技、コンサートなどなど、いろんなジャンルで、5万人が集まることは、希有なことである。
しかも、そのビッグスタジアムが「常設」されているのだ。
阿呆である。
各スタジアムは何かに特徴付けしないと、生き残れないことは確かだ。
では、宮城スタジアムは何をめざすのか。
地元の生涯スポーツコア施設としての運営を目指すのか。そうであれば、観客席は不要だから、ワールドカップ後はさっさと壊すのが妥当だろう。
障害者スポーツのメッカにするのか。そうだとすれば、障害者サッカー大会招致をしなかったのは大失策である。
私自身、宮城スタジアムが障害者スポーツのメッカにふさわしいかどうかは、全くわからない。
ただ、日本中、あるいは世界中の障害者が、宮城の利府に行けば、なんかやっているだろう、と思ってくれれば、こんなにうれしいことはないようにも、思う。
健常者と障害者を区別することは、無論、ナンセンスである。だったら、時代に逆行するように、何をいまさら、障害者スポーツのメッカ、だ。と、こう反論を受けるかもしれない。
いやいや。障害者こそスポーツが必要と思う私は、逆の発想である。
障害者スポーツの延長線に健常者のスポーツがあり、その境はないのだ。
だからこそ、基礎スポーツのメッカ、つまりは、障害者スポーツのメッカに、宮城スタジアムこそ、ふさわしい、とも思う。や。そう思いたい。
ここにくれば、なんかやっている、そんなところこそ、真のスポーツ倶楽部なのである。


8月2日朝、家のアサガオ棚にやってきた訪問者

2001/07/24
う〜ん。一ヶ月もあいてしまった。。。
真のホスピタリティとは何か。そう思うとなかなか悩むものである。
サポータービレッジは、私の夢であり、そして、絶対に実現しないといけない、と思う。
それは、サポーター/ファンと、住民の両者にとって、必要不可欠なふれあいの場となるのだ。
非日常のサポーター/ファンと、日常の住民が融合することが、どだい無理な話なのだ。
ところが、サポータービレッジは、その緩衝地帯になることは間違いないのだ。
まして、そこで、その地域の物産や祭り、にぎわい、宗教などが、交錯することで、大きな交流が生まれるはずだ。
こう思うのは、たんなる妄想狂の戯言なのだろうか。
では、具体策は? 行政のバックなしにできるのか?
う〜〜ん。
が、できるはずだ。行政は無理かもしれないが、行政を構成するのは、人、なのだ。
サポータービレッジと、無料の、そしていかなる人もウェルカムなクローズドサーキットは、絶対にやらねばならぬ。
やれなくても、ワールドカップはあっという間に過ぎていくだろう。
それでいいのか。
本当にそれでいいのか。

そういう問いかけが毎晩続く。。。。。

2001/06/30
元々くじ運がないと思っていたが、そうであった(笑)。
待てど暮らせど、ワールドカップチケット一時販売の当選通知は来なかった。
ま、そんなもんだろう、と思っていたが、来ないとやはり寂しいものはある。
逆に来年の6月は、スタジアム外で活動することに踏ん切りがついた感じだ。
何をやるのか。
いろいろとやることが多くて、目が回りそうだ。
とにかく、必須なのは、
1.クローズドサーキット
2.サポータービレッジ
の開設である。
これは何をおいてもやらないといけない。
あとは、利府駅からスタジアムまでの道すがらの、「仕掛け」である。
いろいろと腹案はあるが、もう少し練ってから公開することとする。
チケットが来ないのは寂しいが、何かさっぱりしたような気がする。
ある種の爽快感まであるのは、一体なぜだろうか。
自分でも不思議なくらいだ。

2001/06/20
宮城スタジアムでの1年前イベントが終わって早10日が過ぎた。
3000人以上が集まったが、一体何が残ったのだろうか。果たしてワールドカップ気運の醸成という目的は果たされたのだろうか。
甚だ疑問だ。
一方で勉強会やパネル展というような地道な企画が影を潜めた。
宮城県はワールドカップに何を期待しているのか、またまたわからなくなってきた。
一方でイタリアチームの仙台キャンプで関心を集めている。キャンプ地は国対国1:1の交流の機会だ。
仙台市がキャンプ地に選ばれることへの期待は強い。
1年前イベント、キャンプ地、ベガルタ仙台躍進。。。。
これらがそれぞれ独立に話題になっていくが、どうもワールドカップ開催県という認識がなかなか侵透しない感じがする。
なぜだろうか。
今月末には第一次販売のチケットの申込みについて、当選者に案内が届く。
そのとき、また刹那的に話題に上るだろうが、また消えて行くに違いない。
この意識の薄利は一体何に起因するのだろうか。
理由はばくぜんと頭の中にあるが、それを肯定する自分が怖いのである。
そうはいっても、すでにあと、340日あまりで、世界が宮城スタジアムにやってくるのである。
招かざる客か、はたまた幸運をもたらす女神か。
いや、通り過ぎるただの旅人となるのは目に見えている。
このままでは。

2001/06/02
コンフェデレーションカップが始まった。
ワールドカップまで1年を告げる日韓最初の共催の大会だ。
新潟のサポーター諸氏は、簡易宿泊所を企画したが、何か横やりが入ったようだ。

来年、どこのチームが来るのだろうか。欧州?南米?アフリカ?
どこが来ようと、ファン・サポーターはやってくるだろう。
最長1ヶ月あまり。彼らはどこに宿泊するのだろうか。恐らく最初から1ヶ月滞在するつもり日本、韓国にやってくるだろう。
たとえば、カプセルホテル2000円のところに泊まり歩いたとしても、30日で、60,000円である。
その間、飯も食うし、交通費も払わねばならないだろう。
1ヶ月日本に滞在するということは、大旅行である。日本人が日本を旅しても、1ヶ月はよほどの大金持ちでない限り、こたえる。。。
まして、平均賃金が1ヶ月5000円以下の国からやってくるサポーターも居ることだろう。
彼らはお金を溜めて、4年の一度の祭典にはるばる海の向こうからやってくるのである。
日本までの往復で財産の大部分を使うであろう。
日本滞在中はどうするのか。
切りつめるべきは切りつめる。
寝るだけなら、どこでも寝られるではないか。
だから、駅寝、キャンプ、自炊、は、当たり前だろう。

だからこそ、サポータービレッジが必要なのだ。
自炊でき、野営できるところが必要なのだ。
自分が1ヶ月、東京のど真ん中で暮らすことを考えよう。どうするか?
まして異国の地。

情けは人のためならず、自分のためになるのである。
もてなしの心は、ごく普通の生活ができるかどうか、という低い視線から生まれるものである。

2001/05/29
5/25ワールドカップ対策協議会、推進委員会、利府町との三者協議が終わり、翌日の土曜日は子どもの運動会。そして、日曜日5/27は、第1回障害者スポーツ大会リハーサル大会であった。
長野パラリンピック以来、障害者スポーツの熱気に驚き、またそのおもしろさに魅せられてきたので、この日を待ちかねていた。
期待を裏切るものは何もなかった。満足であった。
いや、そういうと嘘になる。期待を裏切ったものは、天候(寒かった)と、運営の一部だろうか。
ま、とにかくそういうものを考えないようにするくらい、おもしろかった。
障害者スポーツ大会を見ていると、何か、自分でもできるのではないか、そんな気がしてくる。
非常に身近なスポーツをやっている気がするのだ。
しかも、皆、屈託がない。いい笑顔だ。
ただ、スラロームでは肝を冷やしたことがあった。
車椅子で障害を乗り越え、ゴールまでたどるのだが、障害がどうしても乗り越えられない選手がいた。
彼は車椅子を操って乗り越えようとした。。。
が、その瞬間、ひっくり返ってしまった。誰も助けられない。助けたら失格なのだ。
一人で車椅子を立て直して、車椅子にはい上がって、また、挑戦。
そのとき、彼は、真っ逆様に後頭部から、後方へ車椅子ごと落ちていった。
これには、「あっ!」と思わず声を上げてしまった。
精魂尽きたのだろうか、いや、無念のリタイヤであったことは、確かだ。
彼は、競技委員の問いに、リタイヤを告げたようだった。
彼の悔しさは、遠い観客席からも手に取るようにわかった。
「また、次があるさ」という、いかにも偽善的なことばを、私は飲み込んだ。

目の不自由な人の1500m。
足や手が不自由な(切断)人の水泳。
知的障害の方のサッカーや陸上。

みんな見ていておもしろい。
おもしろいものでなくては、誰も来ない。
そこに手が届きそうな、そんなスポーツを楽しげに、かつ真剣にやっているのだ。
スポーツは楽しいもの。
そういう原点を見た思いの、大変有意義な1日だった。

来られなかった方に、雰囲気を少しだけ。写真集はこちら。

2001/05/20
先週は2人の新聞記者の方と会った。
これまでもそうだが、「なぜ、ワールドカップ対策協議会なるものを結成したのか?」という質問があった。
確かに、言われてみれば、そうだ。なぜ、組織したのか。
協議会メンバーは、全利府町町内会長。議長は、わが菅谷台町内会会長の酒井さんである。
ワールドカップは天災である、と考えると考えやすい。ワールドカップは住民の熱意で、この宮城にやってくるのではない。元々は、日本サッカー協会だかなんだかの、強化計画の一環で決まり、なんだか知らないうちに、宮城スタジアムでやることになったものなのだ。
だから、おれらが呼んだわけでは断じてないのだ。
この天災。ワールドカップというと、フーリガンである。この発想は、世界のサッカーに詳しくなく、かつ新聞などをよく目を通す人ほど、起こしやすい。
さらには、サポーター=フーリガン、という短絡的な考えにつながる可能性がある。
つまり、ワールドカップのときに、家に閉じこもって鍵をかけて、じっとしている、という、まるで空襲警報がなっているときのような対応を考えてしまう。
ただ、この天災は、やってくる時期、規模が予測できるところが、素晴らしい。
そうやって家に閉じこもって天災が過ぎるのも手ではあるが、時期と規模がわかっているのなら、対処もできる。
それどころか、折角世界の人々が、この利府に来てくれるのではないか。これは、絶好のチャンスではないか。
つまり、この災いを転じて福となすことができるのではないか、これが協議会を発足させようとした、考えである。
別に協議会がなくても、行政の主導で、天災は何事もなく、過ぎていくかもしれないし、日本の行政は凄腕の人ばかりだから、たぶん問題など起きないだろう。
が、何にもしないで、ただ、ワールドカップがやってきて、通り越していくのを、じっと見ている、って、いいのだろうか。
自分にとっての、何かをつかむ、絶好のチャンスが来ているのに、それをみすみす見逃しているのではないか。
ワールドカップという世界最大規模のお祭りが、この利府に来る! というのに!!
一緒に楽しもうじゃないか。お祭りは見ているだけでは、おもしろくない。実際に参加しないとダメだ。
もちろん、ワールドカップに出場する選手にはなれないが、お祭りには参加できるぞ!
一人で参加するのはつまらんから、みんなで参加しようじゃないか。
これが、ワールドカップ対策協議会を結成しようと思った真の理由であった。
警備、交通アクセス、フーリガンなどなどの問題提起は、ワールドカップとは何か、を考えるためのヒントである。
ワールドカップをきちんと知った上で、お祭りであるワールドカップを楽しむのである。
些細な問題を妄想して、絶好の楽しむチャンスを逃すのは、悔しいではないか。
一方で、自分たちの生活もある。
お祭りは皆そうだが、「日常生活と非日常のせめぎ合い」なのである。
きちんと区別した上で、お祭りを楽しもうではないか。
それを、ワールドカップ対策協議会に求めたい。
5/25、協議会は、県ワールドカップ推進局、利府町との3者協議に臨む。

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