私と宮城スタジアム   
〜序章〜

この小文を愛妻に捧げる

 宮城スタジアムを見るとき、私が好きな場所がある。私のホームページのトップに登場させている写真の多くはここから撮っている。そこは、宮城スタジアムと同じ目線で対峙できる場所であり、その日そのときの宮城スタジアムの表情をうかがうことができるのだ。
 彼女(宮城スタジアム)は頑強だが、実は優しさを含んでいる。ワールドカップ直前の5月下旬、その場所で彼女を見ると、悲しげだった。世紀のワールドカップが行われるというのに、淋しげな表情を浮かべていた。国旗掲揚塔はやぐらで囲われ、彼女の周りは囲いで仕切られていたし、無数のやぼな鉄骨が彼女を囲んでいた。まるでガリバーが小人の国に行ったように....

 私が菅谷台という地に土地を買い、家を建てようと思ったのは、平成6年長男が生まれる前だった。当時塩竈市千賀の台に住んでいた私は、利府街道経由で車で大学に通っていた。利府街道を通るたびに、新しい団地、菅谷ニュータウンにあこがれを抱いた。長男が生まれると家族は両親を含めて7人となり、その当時の家では手狭ということで、とりあえず夫婦で見に来ることにした。前年の平成5年にすでに国内開催地候補15箇所が決まっていたが、当時は菅谷ニュータウンのそばでワールドカップが行われるかもしれない、なんて、夢にも思っていなかった。ただ、国民体育大会が行われるという話は聞いていた。宮城スタジアムはもちろん工事中だった。
 菅谷ニュータウンにはまだほとんど家は建っていなかった。分譲を始めた年の瀬である。団地内のことばかりに目がいった。グランディ21には全く目がいかなかった。
 とにかく広い土地を探した。幸い、菅谷ニュータウンには坪数の大きい土地が多くあった。翌平成7年の春、生まれたばかりの長男をだっこして、女房が抽選にのぞんだ。実は今の土地は希望者が多く、抽選となったのだ。生まれつき強い運を持つ長男のおかげで、無事私達は菅谷ニュータウン内に自分の土地を確保することができた。次の年、宮城スタジアムでのワールドカップ開催が決まったときには、すごいことになるぞ、とは思ったが、実感どころか、グランディ21という存在自体が私の中で隔離していた。
 一方、千賀の台団地で町内会役員を務めていた私は、町内会が住民と隔離された団体になりかねないという危惧を実感していた。町内会活動をできるだけ透明化させることで、関心を持って貰い、意見、批判を出してもらうことこそが最重要と感じていた。町内会だよりを必ず毎月1号以上は発行することなど、広報、庶務としての役員活動をこなした。一部の人は町内会だよりをあまり見ることなく、宮城県や塩竈市の広報とともに捨てるかファイリングされるかされるだけとなったが、自宅にも電話などでいろんな意見、批判が届くようになった。女房こそ大変だったが、多くの場合、黙って聞くことこそ重要なのだ。その中で重要問題を役員会にかける、という一つのストーリーができあがった。いろんな意味で、自由に役員活動をやらせて頂いた。町内会活動の最大行事、夏まつりをプロデュースするなど、大変ではあったが、3年弱の役員活動を通して、多くの人と知り合いになり、また多くのことを学んだ。
 そんな中、平成11年春、確保した土地への家の新築工事が始まった。平成9年に生まれた次男がよちよち歩きをしている頃である。宮城スタジアムの方も完成に向けて最後の工事が行われていた。土地を確保した頃にはあの巨大な兜(かぶと)は全くなかったのに、あっという間にできあがったような印象を受けた。家の建築工事が進む中、その斬新なデザインが気になるようになった。
 平成11年12月上旬、海が見える家が欲しいと建てた千賀の台の家から、巨大な兜が見える新しい家に引っ越した。いずれの家も基本設計は自分で行った。今度の家は前の反省を十分生かしてのものなので、自分なりに満足がいった。故郷の土地を売り、ここに一生住もうと思っていたからだ。父母も同じ気持ちだろう。

 有珠山が噴火した。平成12年3月31日のことだ。白河水害の経験から仙台でも災害ボランティアの必要なときが来るに違いないと感じ、東北災害関係ML等を立ち上げた矢先のことだった。噴火の2日前から現地のMLに入り、万一のときの応援の備えていた。阪神淡路大震災以来、災害情報ボランティアは、いわば後方支援の形で重要性が増していた。有珠山の麓、伊達市に住む人は自ら被災地の情報を発信していった。この姿勢が後で、2002rifu.netとして、自ら発信していくことを決意させるきっかけとなった。
 とにかく火山災害は長引くことが多い。情報の後方支援は現地に行く必要がなく、また、サーバ類も現地から遠くてもかまわないし、逆に遠い方が万一の情報ラインの寸断に対処できる点でベターだ。そこで、有珠山MLを大学のサーバで動かし、かつアクセスが集中することを恐れてのサーバの分散化にも協力した。
 長引く避難生活はまず災害弱者である、子供たちの心をむしばむ。情報ボランティア、有珠山ネットは彼らの心のケアを行うため、うすこいプロジェクト、うすゆめプロジェクトを実施していく。私は長女、次女をつれて、こどもの日、伊達市の避難所に入った。体育館の床には多くの人が寝泊まりしていた。次女は言う「早く帰ろうよ」と。無理もない、まだ小学校2年生になったばかりだった。私は「何て事を言う!この人たちは家に帰りたくても帰れないんだ。」と叱った。長女、次女は自分なりに災害の恐ろしさを知ったようだった。彼女らは父親と離れて、別の避難所に行き、うすこいプロジェクトを手伝い、子供同士の交流をした。3日間伊達市に逗留した彼女らは、夜、寝袋で寝て、昼は避難所で過ごすという得難い経験をした。8月、仮設住宅のある虻田町に行った彼女らは、大きく成長し、自分で自分の仕事(ボランティア)を探し、虻田の子供たちと交流した。
 「自ら考え、自ら成す」。
 このことを実践した彼女らは、平塚、仙台、虻田と七夕の短冊に、有珠山沈静の祈りを込めた七夕飾りを作る、うすゆめプロジェクトでは中心的な存在となってボランティア活動を実践した。

 私は三宅島噴火でも災害情報ボランティアとして後方支援を行ったが、ここでは深い挫折感を味わった。後方支援の限界を味わってしまった。被災者が望むことをやる、それが第一条件だ、忘れたわけではないが、三宅島村は秋川に子供たちを閉じこめるという愚策を行っているのに、被災者側はそれを肯定するばかりか、注意を喚起する私達を敬遠しだした。後方支援の限界を見た。従って、みやさんプロジェクトは必ずしも受け入れてくれたわけではないと思った。

 前後するが、平成12年6月11日、私にワールドカップを知らしめることがおきた。キリンカップの開催であった。その年の4月、宮城スタジアムは完成した。そのこけら落としの試合だ。折しも、菅谷台町内会の副会長であった、私は、キリンカップまで1週間を切ったというのに、菅谷台町内に何の連絡も情報も来ないことにいらだった。
 そのとき、有珠山、三宅島噴火を唐突に思い出した。情報は求めないと来ないのだ。情報を来ることを待っていてはいつまで立っても来ない。
 その日、キリンカップ開催日からわずか2日前、6月9日、「宮城スタジアム問題を考える」ページが誕生した。自らで得た情報をどんどん公開していくのだ。ワールドカップは災害と同じだ。日常生活に多大な影響をもたらすだろう。でも事前に多くの情報を得ていれば、災い転じて福となすことができるのだ。
 その日から、自分の目で耳で足で得た情報をどんどん発信しようと考えた。つまり、有珠山災害の被災者と同じ考えである。情報を発信するところに情報は集まる。


2002/6/8午前6:00撮影