私と宮城スタジアム   
〜序章〜
前の節はここ

前節からの続き)
 わずか2日前のホームページ開設に何の意味があったか。当時はよく自問自答した。見られるweb pageを作るために、地元ならではの情報、すなわち足で稼いだ情報を載せた。すなわち、交通アクセスの情報。スタジアムの混乱は即、菅谷台団地の混乱につながる。キリンカップサッカーでは、驚くべきことに、「岩切から歩いて50分」などという交通アクセス案内が出た。50分も歩いて行くスタジアムは日本中探してもここしかあるまい。

 当時を振り返ると、宮城県、利府町、グランディ21、宮城県サッカー協会に対して地元への説明がないまま実行されようとしているキリンカップサッカーへの怒りをぶつけつつ、一方で町内会独自に、JR東日本、宮城交通などに調査に赴き当日の交通アクセスについて調査した。状況がだんだん明らかになってくると、憮然とした。こんな計画で5万人を集めようとしているのか、と。だからこそ、岩切、利府から歩け、という話になるのだ。
 「なんでこんなところに、スタジアムを作ったのか?」
 この疑問は今でも抱き続けているが、当時はとにかくもうすぐ5万人という利府町にとって未曾有の人々がやってくるのだ。東京の国立競技場、東京ドームなどで見た、あのものすごい数の人々が、利府町の人口の1.6倍の人々がやってくる。。
 この状況下で、我々菅谷台町内会役員が下した結論は、一つ、「よそ者を入れない」というものだった。つまり、鎖国である。鎖国決意はインターネットを通じて、あちこちに配信した。車どころか人も入れない、という「お願い」に多くは黙って聞いてくれた。一部には「鎖国」に対する批判があったが。

 考えてみると、「鎖国」というのは最後の手段ではあったが、最良とはとても言えなかった。鎖国状態を保つことは、机上の空論でしかないからだ。「鎖国」という、サポーターにとってはいわば「鞭」の代わりに、交通アクセスや周辺情報(コンビニ、レストラン等)という「飴」を提供することとした。
 だが、この「鎖国」状態は尋常ではない。排他主義を徹することは町内会の意思ではないし、無論私の意思とは全く違う。この緊急避難的な「鎖国」を貫くのは、全く情報がないやむを得ない状態での苦渋の決断である。今から振り返っても合点がいかないことが多い。
1)主催者側は利府町民にイベントの名称と期日を言い渡したに過ぎないこと
2)誰がどれだけ来るのかなどという予想は全く伝えられなかったこと
3)無論、交通アクセスや警備計画は公開されず、当日周辺地域で何が起こることが予想されるのか、全く伝えられなかったこと
などなど。初めてのイベントとはいえ、これではあまりにもひどすぎる。自分たちが勝手にイベントをやって周りの迷惑は知ったことではない、ということなのだろうか。

 6/11がやってきた。その日は仙台の梅雨らしく、東よりの風=やませが吹き、冷たい小雨が降っていた。多くのファン・サポーターが黙々と岩切や利府駅から歩いてきた。まるで巡礼のようだ。スロバキアは強く日本は中村俊輔のFKからの技の一足で追いつくのがやっとだった。ファン・サポーターは重い足を3〜4kmもの道のりを帰っていった。

 住民はゴミ片づけなどを黙々と行い、キリンカップの開催に静かに怒りをこめた。何のためのキリンカップなのだ、と。ただイベントが行われ、ただ人が来て、交通は大渋滞し、喧噪が増し、そしてゴミの山を残す。私は、あんなもの=宮城スタジアムのために、我慢を強いられる、と、巨大なコンクリートをながめた。

 そのとき、確かに宮城スタジアムに対して突き上げてくるような怒りを覚えた。


2000/6/11午後1時撮影